「本質的に考える」ということについて

「本質的」とはよく使われる言葉だけれども、「本質」とは何なのだろう?

「本質的に考えなければならない」と言葉としてはよく聞くし自分でも気軽に言ってしまうけれども、改めて考えてみるとなんだかよくわからなくなってきた。実はさっぱりわかっていないのかもしれない。

なので、「本質的に考える」という言葉をキーにして、つらつらと書いてみる。

データに出てこなかったことも見る

データとして捉えられるあらゆることは、結果に過ぎない。だからデータに出てきたことだけでなく、データに出てこなかったことの両方を見なければならない。

POSデータにあるのは何を買ったかだけ。買いたくても売り切れで買えなかったのか、別のブランドがあったらそちらの方が売れたのか、店舗のレイアウトが変わったらどうか、なぜその店に来たのか・・・人が内面で考えていることは(今のところ)データには表れない。

だからデータに表れなかったことを考えようとするのだが、望遠鏡を覗き込んでも物理的に存在しない物は見えない。だから感と経験で補間していくしかない。

「なぜ」かを考える

結果には何かしらの原因がある。一言でいえば「なぜそうなったのか」を考えることであり、つまりは人間を理解しようという試みである。

しかし、誰が何を考えているのかなど理解しようと試みたところで、大したことはわからない。

だから勝手に自分で話を肉付けしていくが、本当に正しかったのか検証することなどできはしない。そこにあるのは自己満足ではないのか?

たくさんの情報を仕入れる

他の人の知恵を借りるために、書籍やネットでいろいろな人がいろいろな事を言っているので参考にさせてもらう。

それが成功した経営者、著名なコンサルタントであっても鵜呑みにすれば自分が正しいと思っていることをより正しいと思い込みを強化することにしかならない。

だから背景まで含めて内容を理解し、それを数多く集めて「総合的」に判断することは常に必要だ。時間と予算に余裕があればの話だが。

一度しか起きないことなら過去から類推する

確率80%で起きると推測はできる。数多く起きれば検証できるが、1度きりしか起きない事象であれば過去の類似の事象からその確率を推測する。

80%と30%の違いって何だろう。1度しか起きないならその推測は正しかったのか。

簡潔な言葉で表現するようにする

本質を捕えていれば、長ったらしい文章ではなく簡潔な言葉で表現できる。だからできるだけ簡潔に、短い文章で書く方がよい。今までそうしてきた。

が、改めて考えてみると、果たして本当にそれは正しいのか。わかった気にはなれるが、その実何もわかっていないのではないだろうか。

「本質を理解できた」と「本質を理解できたつもりになれた」の境目は果たしてどこにあるのか。

誰かに伝えるにしても短い文章のほうがウケが良いのはたしかだ。しかし、本当に自分が言いたいことはその短い文章で伝わっているのだろうか。

やっぱり自分は何もわかっていない

「本質的」という話から離れてしまった感はあるが、そこまでたどり着く前の問題なのだろう。

結局のところなどと言っても自分でわかっていることなど何もなく、検証されない推測だけなのかもしれない。だからウケは悪くても「絶対に間違いなく正しい」ではなく「自分はそう思う」で留めておく。たまにはみ出しているかもしれないけれど。

言うまでもなく、こういう余計なことは考えずに「絶対に間違いなく正しい」と大きな声で言い切れる方が金は稼げるし、世の中の多くはそれで回っている。

良し悪しに意味はなく、やるかやらないかを強制することもできない。

ただし、自分はやらない。