データ分析とインテリジェンス

足りていないのは「検証と学習というデータを積極的に収集すること」なのかもしれない

検証と学習が無ければ失敗を繰り返す

行政が提供するWebのサービスが総じて悲惨な状況なのはご存知の通り。どうしてここまで使いづらい、分かりづらくなるのかと怒りを通り越してあきれたことは数知れず。

一体なぜかと考えていくうちに、Webサービスの質の問題は事象のほんの一部が現れただけで、政治や経営から個人に至るまで意思決定の失敗を繰り返すことにはある共通の原因がある気がしてきた。それは「過去に行った意思決定の検証とこれからの意思決定のための学習の不在」である。長いので以下「検証と学習」と呼ぶ。

「検証と学習」は自ら求めなければ手に入らない。しかし日本人は受け身体質で「しょうがない」と考えるために検証と学習がないがしろになっているのではないだろうか。だから「とりあえずやってみてうまくいったらそれでよし、ダメだったらあきらめて次を考えよう」とやりっぱなしになりそのうち大失敗する。

しかし検証と学習が強制的に起きる事がある。そして「日本人がうまくやれているのは強制的な検証と学習が起きる場合に限る」のではないだろうか。

というのが今回の話の流れ。例外はいくらでもあるが全体としてそうではないか、と自分が考えた話を延々と書いていく。

「検証と学習」とは何か

検証とは、過去に行った意思決定を評価することである。その時点での最良なデータやインテリジェンスを集められていたか、それらを正しく統合して判断出来たか、施策は適切であり実行はできたか、どのぐらいの効果があったかなどを振り返る。

フィードバックは検証の際に必要なデータの1つである。「上司から部下への」の文脈で出てくることが多い気がするが「部下から上司への」「外部から内部への」「自分への」フィードバックも全て含む。

学習とは、これからの意思決定のために検証から「良かったこと、より成功するために必要なこと」と「悪かったこと、失敗しないためにはどうするべきだったか」を考えることだ。振り返るだけではなく、これからのために「なぜ起きたかの原因を探り、より良い選択肢は無かったのか」を得ることが未来に繋がる。

検証と学習は自ら求めないと手に入らない

検証と学習は通常は意思決定者自らが求めなければ手に入らない。

実は不満をため込んでいる人がたくさんいてもその声を集めたり探さなければ何もなかったと思ってしまう。また、第三者がいくら正しい検証をしたところで本人に聞く気がなければ存在しないのとかわらない。

検証と学習とはつまりデータとインテリジェンスのこと

検証と学習は全てこれからの意思決定のために行うことであり、手に入るのはデータである(なので時にはインテリジェンスとなることもある。違いは「データ」と「インフォメーション」と「インテリジェンス」の違いを参照のこと)。

名前が変わるとまったく別物だと考えてしまうことがあるが、そうではないという注意のために書いておく。

日本人の受け身体質が検証と学習を遠ざけて「とりあえずやってみるサイクル」を生み出す

日本人は基本的に「与えられた状況下で何とかする」傾向が強く前提を疑い修正しようとする意識があまりない気がする。人災が少なく天災が多かったせいであろうか。

その結果の1つとして能動的に行動の選択肢を模索するために必要なデータやインテリジェンス、つまり「知ること」にあまり興味がないらしい。

あわせて考えてみると「受け身体質→自らデータやインテリジェンスを求めない→検証と学習が行われない→間違えを認識しないor認識しても検証しない→学習できない→何もデータが無いのでとりあえずやってみる」が繰り返されるということになってるのではないだろうか。

それで「たまたまうまく行けばそれでよし、うまくいかなければ次をやればいい」と考えるのだろう。もしうまくいっているように見えても「どれぐらいか」を検証していないから、実はとんでもなくロスをしても気づかない。

検証と学習が行われないと質が上がらない

冒頭に「日本のITとかWebのサービスが総じて悲惨な状況」と書いたが、特に行政のWebサービスは日常生活で触れる中でも「検証と学習」が行われていない最たる例ではないだろうか。

作りっぱなしで質が低くてもフィードバックがなければそのままになる。自主的な改善は自覚が無いのだから見込めない。ひどく使いづらくても罰則を受けるわけではない。結局そのまま放置され、負担を追うのは利用者だ。社内システムも同じ背景があると考えられる。

検証と学習がなければ誰がやっても同じことを繰り返す

『失敗の本質』は有名な書籍であるが、旧日本軍を指導していたのは当時の日本の超エリートである。彼らの失敗はもしかしたら検証と学習が無いから社会全体で同じことを繰り返しているだけで、特定の個人はたまたまその時にその場所にいただけだ、と考えることもできるだろう。つまり誰がやっても似たようなことになるのかもしれない。

罪が無いとは思わないが、同じ立場に置かれても自分だったら間違えずにできるというのはとんでもない幻想である可能性は考えておきたい。

それと旧日本軍における失敗の1つに「情報の軽視」がある。検証と学習がされなかったためだろうが、現代のビジネスにもしっかり引き継がれている。この話はいつかしっかりとした検証を行いたいと思っている。

日本人がうまくやれるのは「強制かつ直接のフィードバックが起きる時」では

日本のサービス全体が悪いのか、というとそんなことはない。ものづくり、飲食業、効率的な鉄道、現場の強さなどはすぐに思いつく。WebのサービスやIT全般の質と比べると本当に同じ国の出来事なのか疑わしくなる。

一体何が違うのだろうかを考えた結果、ある仮説が思い浮かんだ。それは求めていなくとも強制的にかつ、当事者に直接フィードバックが起きる時ではないか。

ものづくりは失敗すればその場でわかる。飲食業も作り手は味見ができるしまずければ客が来なくなる。客と向き合っている現場は対応しなければ自分に被害が及ぶ。

一方でWebサービスは当人が出来ているつもりであればフィードバックは手に入らない。マネジメントも同様。それと「日本では外圧が無いと動かない」ともよく言われるがこれもフィードバックの一種ではないか。

検証と学習を積極的に取り入れたら変われるのでは

もちろん検証と学習が全ではないが、非常に大きな影響を及ぼすことはたしかであろう。

例えば「ABテスト」は「AとBのどちらがいいかを決めること」ではなく「より良い方法を探すための検証と学習の1つ」であるが、日本のサービスの中でも行っているところとそうでないところではどんどんと差が広がっていくに違いない。

いろいろ書いてみたが、「検証と学習(という名前だがその実はデータ)が重要だ」だけだと当たり前な気もする。「検証と学習は自ら積極的に取りに行かなければ手に入らない」ことをより意識しようと思う。言い換えれば誰かが何かしてくれるのを待っているだけではいけない。昔の自分に1000回ぐらい言いたい。

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